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人生朝露

人生朝露

ユングと雨乞い、ユングと無為自然。

荘子です。
ひさびさに荘子です。
今日は、最近刊行されたユングの『ヴィジョン・セミナー1』から。一九三一年五月六日の講義の記録です。

C.G.ユング
“これはきわめて思弁的な観念で、私たちの患者がそのようにしてヴィジョンを見るべきだという、無意識の示唆に沿うものです。彼女は打ち勝ち難い障害に直面していますが、内界に木を見ているという事実は、外界の木が育つのを座って待つことの充分な理由になります。それはこう言っているのです。すなわち、ただ待ちなさい。心配しなくてもよい、外的な状況は、あなた自身の主観的な心の法則であるかのように見える法則にしたがっておのずからととのってくるだろう、と、あたかも、単なる心の法則が同時に外界の諸事象をも支配しているかのようです。そして、これが中国の考え方なのです。くりかえしみなさんに語ってきた、あの膠州(Kiao Tchou)の雨乞い師(レインメーカー)の話を、もう一度引用しましょう。きわめて簡潔にその考え方を教えてくれます。ヴィルヘルム教授がみずから私にその話をしてくれました。
 ヴィルヘルムの住んでいた地方でひどい旱魃がありました。何か月もの間、雨は一滴も降らず、事態は逼迫してきました。旱魃の悪霊を脅して追い払うために、カトリック教徒は聖歌を歌って行進し、プロテスタントは祈りを捧げ、中国人は神像の前で線香を焚き鉄砲を撃ち鳴らしましたが、どうにもなりませんでした。しまいに中国人が言いました。雨乞い師を呼んでこよう、と。そして、別の州から、干からびた老人がやって来ました。彼が要求した唯一のものは、とある場所に静かな小屋でした。そこに彼は三日間こもったのです。四日目には雲が雲を呼び、雪が降ることなど考えられない季節に大変な吹雪となりました。尋常ならざる大雪です。町はその不思議な雨乞い師の噂でもちきりだったので、ヴィルヘルムはその男を訪ねて、いったいどういうふうにしたのか訊きました。まったくヨーロッパ式にこう言ったのです。「人々はあなたを雨作り(レインメーカー)と呼んでいます。どうやって雪を作ったのか教えていただけますか」。すると、小柄な中国人は言いました。「わしは雪を作ったりはせなんだ。わしのしたことじゃない」「ならば、この三日間、あなたは何をしておいででしたか」「ああ、それは説明できる。わしは、ものごとが秩序のなかにおさまっているよその土地から来た。ここでは、ものごとが秩序からはずれておる。天の定めによるしかるべきあり方になっておらぬ。つまり、この土地は全域、タオからはずれているのじゃ。わしも、秩序の乱れた土地にいるがために、ものごとの自然な秩序からはずれてしもうた。だから、わしは、自分が タオのなかに戻るまで、三日間待たねばならなんだ。すると、おのずから雨がきたんじゃよ」。 
 それが東洋の——因果律抜きの—–考え方です。彼はただタオのなかに戻りました。この部屋の雰囲気が悪くなると、私はここで少しばかりタオを修復しますね。それは、あらゆるところに枝を伸ばしてあっという間に育つ木のように広がっていくのです。タオはこの部屋のなかにあります。すると、悪いことは何も起こりません。これは私が共時性[共時律]と呼んでいる観念です。私たちは因果律という西洋流の仮説に従って、あることが別のことを引き起こす、と考えます。しかし、それは本質的に魔術的な観念です。私たちは原因に対して魔術的な価値を与えています。あることが別のことを必然的に生じさせる、と思っているのです。現実には、私たちは系統立った継起だけを見て、因果律という仮説を作ります。あることに因果律の力を付与し、その魔術的な仮説でもって一連の系統立ったできごとを説明するのです。 
 東洋はそういう仮説を作りません。東洋はまったく異なるやり方でできごとを見ます。そこでは、魔術的な因果関係という観念が知られています。魔術的な手段で病気や死が結果させられる場合のように、それが黒魔術においてある役割をはたしているからです。しかし、そのもっとも高度な哲学的観念は共時性です。歴史では、ある一続きの事件がしかじかのできごとに至ったということを目にします。しかし、それらの間には何のつながりもないのです。こう仮定しましょう。私は今みなさんとほかならぬこの問題を議論していて、庭では犬が吠え、自動車の通る音が聞こえ、鳥は歌っている、と。東洋なら、そういったことどもを数に入れるでしょうが、私たちはそれらを排除します。原因を探すのです。私たちは、その犬は猫を見つけたから吠えるのだ、と言います。しかし、鳥が歌うのは、犬が吠えるからでも、私がここで講義をするからでも、自動車が通っているからでもありません。その自動車も、犬が吠えるから通るというわけではありません。つながりはないのです。これらのことは、独立にただ起きるだけです。それらが起きるのは単なる偶然です。私たちにとって、それは説明不要です。私たちはそういう問題を視野に入れることさえできません。一方、東洋人にとっては、これがいっさいを含んでいます。彼はそのことを一つの全体として理解するからです。犬は吠え、鳥は歌い、木々は緑で、自動車が通っている。このすべてが一つのアンサンブルをなしており、バラバラにできない経験なのです。彼は、そうした横断的な見方で、諸々のできごとの本質的で唯一のつながりを見ます。この瞬間にその犬が吠えるということは重要です。みなさんは少し前に、ここの台所で何かが壊れる音を耳にしましたね。東洋の人は言います。ああ、事態はおのずと打開されるにちがいありませんよ[物は必ず壊れるものですよ]、と。”(C・G・ユング 『ヴィジョン・セミナー1』創元社刊 -第1講 一九三一年五月六日-より)

リヒャルト・ヴィルヘルム( Richard Wilhelm 1873~1930)。
ドイツの租借地であった山東半島の膠州で、リヒャルト・ヴィルヘルムが直接見聞きした雨乞いの話。タオイズムを説明する場合の象徴的な例として、また、共時性(シンクロニシティ)を説明する場合にユングがよく引き合いに出したお話です。ユングの著作のうち『結合の神秘』の英語版の注釈にはあって、日本語版にはなく、一般に出回っている書物でもほとんどが、又聞きと孫引きしかないんですが、この『ヴィジョン・セミナー』ではユングが発言した日付まで特定できます。

参照:『黄金の華の秘密』と『夜船閑話』。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5146/

前半部分のお話で、ユングは線香を焚いたり爆竹を鳴らすいわゆる道士の様子について言及しながら、彼らとは別の「何もしなかった」干からびた老人"rainmaker"のおかげで大雪が降ったとしています。『荘子』の庚桑楚篇には、このお話によく似た記述があります。

Zhuangzi
『老聃之役、有庚桑楚者、偏得老聃之道、以北居畏壘之山。其臣之畫然知者去之、其妾之挈然仁者遠之、擁腫之與居、鞅掌之為使。居三年、畏壘大壤。畏壘之民相與言曰「庚桑子之始來、吾洒然異之。今吾日計之而不足、歲計之而有餘。庶幾其聖人乎。子胡不相與尸而祝之、社而稷之乎?」庚桑子聞之、南面而不釋然。弟子異之。庚桑子曰「弟子何異於予?夫春氣發而百草生、正得秋而萬寶成。夫春與秋、豈無得而然哉?天道已行矣。吾聞至人尸居環堵之室、而百姓猖狂不知所如往。今以畏壘之細民而竊竊欲俎豆予于賢人之聞、我其杓之人邪?吾是以不釋於老聃之言。」』(『荘子』庚桑楚 第二十三)
→老聃(ろうたん)の弟子の庚桑楚(こうそうそ)は、老聃の道を会得してから北へ向かい畏壘の山に棲んでいた。知を頼む者はこれを去り、情があるかのように振舞う女性はこれを遠ざけて、あばた顔の者と共に暮らし、労苦を厭わない者を召抱えていた。庚桑楚が居を構えてから三年の後、畏壘の山里は大豊作になった。畏壘の村人たちは声を合わせて「庚桑子がやってきたときは、変わり者がやってきたとばかり思っていた。一日ごとでみるとろくに仕事をしていないが、一年を通してみるとその成果は余りある。もしかすると聖人様であるかも知れない。村で社稷を建てて庚桑子をお祭りすべきではなかろうか。」と言っていた。庚桑子はこの話を聞くや、南に向かって憮然とした表情をしていた。弟子がこれを尋ねると。庚桑子は言った「弟子よ、なぜ不思議に思う?春になれば春の氣が百草を生育して、秋になれば秋の氣が萬物に実りをもたらす。春と秋という季節は、誰が何かをせずとも、自ずから生ずる氣の営みによって天道が行われるのである。『至人はちっぽけな小屋に隠れ住み、百姓は気ままに生活をしながら、至人がそばにいることすら知らない。』という言葉があるが、今や畏壘の隅々まで、私を賢者に祀り上げて人の模範としようと話をしている。老聃の教えを受けながら、このような目にあっているので気が晴れないのだよ。」

後半部分の「犬が鳴いた」うんたらは『荘子』の則陽篇から。
Zhuangzi
『太公調曰「鶏鳴狗吠、是人之所知、雖有大知、不能以言讀其所自化、又不能以意其所將為。斯而析之、精至於無倫、大至於不可圍、或之使、莫之為、未免於物而終以為過。或使則實、莫為則虚。有名有實、是物之居。無名無實、在物之虚。可言可意、言而愈疏。』(『荘子』則陽 第二十五)
→「鶏が鳴く。」「犬が吠える。」といったことはどこの誰でも知っていることだ。しかし、鶏が勝手に鳴いた、犬が勝手に吠えたという出来事を、どんな知者であろうとも言葉では説明しつくせないし、また、鶏や犬が、今まさに何を考えているかも、言葉によってすべてを説明し尽くすことはできない。これを極限まで小さな分析しようとしても、極限まで広い範囲から考えてみても説明しつくせないのだ。物を基準に、有為である説と、無為である説とを言葉で議論しても、それは過ちにしか至り得ない。働きかけがあるとする説であれば、実在するとなり、働きかけがないとすると、虚無であるということになる。働きかけを行うものがあるとすると、「道(tao)」が物として存在することになり、働きかけがないとするならばすべてが虚の世界ということになる。言葉にすることが出来ることも、頭で考えることができることも、これを言葉で説明しようとすると、ますます真実から遠ざかることにしかならない。

参照:荘子の造化とラプラスの悪魔。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5087/

・・・ユングのお話をおおざっぱにいうと、前半部分が「無為」で、後半部分が「自然」ですよね。

参照:ユングと自然(じねん)。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5152/

今日はこの辺で。


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